環境と建設
環境問題の重大さは徐々に認識されてきている。特にゴミの問題や温暖化、資源の枯渇といった観点からはかなり認識が深まって、特にゴミの問題は日常生活を具体的に変えつつあり、否が応でも認識せざるを得ない状況になっている。家電リサイクル法や建設廃材に対するマニフェストの適用など産業界にも大きな変化を強いてきつつある。これらの対策が最適かどうかは別にして、今後もどんどん強化され環境問題を抜きにして経営は語れないところにきている。
しかし、環境問題を主にゴミの問題と考えると、もっと大切な視点、問題が置き去りにされてしまう危険がある。地球温暖化や、ダイオキシン、環境ホルモンの問題も,広義の意味では廃棄物即ちゴミ問題であり、これらのことを言っているのではない。ある書物によれば,環境問題は二つの問題に集約できるという。一つは,広義のゴミ問題である。そしてもう一つは生態系の変化とそれに伴う野生生物の絶滅の問題であるという。誰もオオカミの絶滅,トキの絶滅、さつきマスの問題など頭では分かっていると言うであろう。しかし,特に都市生活者は全くと言っていいほど野生生物の絶滅など経験,体験していないのである。ゴミ問題の日常性とは比べ物にならないほど遠い問題なのである。野生生物の絶滅も紛れもなく我々の日常生活の結果生じているのにである。見ぬもの清の言葉どおりである。実は筆者も野生生物の1種類や2種類なくなっても,そんな事は太古の昔から進化の過程で起きている事柄で、自然の掟のうち位に考えていたのである。しかし、国連の推計によると、脊椎動物に限っても何と年間4万種にのぼる種が絶滅しているという。13分間に1種類である。過去2億年の脊椎動物の絶滅のスピードは年間0,9種類なのにである。この違いは我々の想像をはるかに越えるといわざるを得ない。そしてこの事が何を意味するか,何をもたらすのか考えるすべもないというしかない。しかもこの原因が我々現代人の生活の結果である事は紛れもない事実である。そしてこの状態がこれからも続くとすれば何かが起こると感じるのは筆者だけではないと思う。そしてその事を実感するのは我々の世代ではないかもしれないが次の世代かその次の世代はその結果を引き受ける事になるであろう。大阪の池田小学校の惨事が報じられているが,ひょっとして我々の日常生活で行っている事はスピードの遅い子ども殺しの惨劇そのものなのかも知れない。科学技術が人間を幸福にしたことは否定しないが,科学は万能ではない事がはっきりしてきたと言わざるを得ない。この認識にたって我々の建設行為を見直す事が緊急に求められている。特に建設行為の環境にもたらす影響は人間の行為の中でも最大のものであると言う認識が重要である。現在,政治の世界では改革が声高に叫ばれているが,その理由は大半が経済の活性化と財政問題の解決である。環境庁が環境省になっても予算が倍増したとは聞いていないし,改革の理由が環境問題にあるという議論はあまり聞こえてこない。それは国民そのものが環境に対しての認識がまだまだ薄いからであろう。その原因に建設行為があるといったら言い過ぎであろうか。しかしこれまでの建設行為の考え方は,人間社会の快適性と利便性を高めるべく努力する事にあった。大抵の建設は国民の生命の安全と財産の保護という名目でなされてきた。そこに自然に対する配慮はなく、結果として人間を自然から遠ざける事になり、都会では四季の移ろいさえ感じられなくなっている。身の回りに野生生物を全く見ることなく生活している人に野生生物のことを考えろといっても無理である。まずは都会に自然の一部でも復活させる事から始めなくてはならない。特に子どもたちにとって自然とのふれあいがどんなに大切かは誰も認識しているはずである。只,そのための行動がなされていないのである。道路特定財源の見直し問題が議論されているが,子どもに自然を取り戻す為の目的税に換えるなら,多くの人の理解を得られるのではないであろうか。いずれにしても、我々建設産業は環境問題から離れて存在する事は出来ない。国民の生命,財産を真に守る道を環境問題を踏まえて探っていかなくてはならない。まずは,環境庁の発表する絶滅の恐れのある野生生物の資料レッドデータブックを手にする事から始めては如何であろうか。
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