リスクを避けられない社会
9月11日,ニューヨークのマンハッタンで起きた同時多発テロの記憶はまだなまなましい。平和な日本では考えられない事件という思いで見ていたが,時間が経過していくにつれ他人事ではないと思うようになった。その後の報道では案の定,テロリストグループの一部が日本に滞在しているとか,爆弾テロの予告電話があったりとか、本当に何が起きてもおかしくない世の中になつてきた。危険は何処にもあると考えなくては生きていけないということか。このことと直接関係があるわけではないが、グローバリゼーションの進行とともに、物事の白黒がはっきりしてきつつある。即ち経済活動も信用をベースにした取引からしっかりしたドキュメントを作って契約する取引形態に変わってきた。したがってこれまであまりはっきりしていなかったリスクの存在も明確になってきたといえる。
さて、建設関係のことであるが、グローバリゼーションの進行とともに建設関係の契約も、甲乙協議から細目がびっしり書かれたものになりつつある。リスクのある事柄はリスクがあることを明示してその対応をあらかじめはっきり決めておく事になってきている。即ち、リスクを誰が取るかがはっきりしてきたのだと思う。これは信頼を基礎とした社会から契約を基礎とした社会への転換であり、もう逆らえない動きであろう。契約自体も電子入札のような手段が常態化すれば人間関係の信頼を基礎とする事がだんだん難しくなる、したがってそこに発生しうるリスクの予測は大変重要な事柄になる。三段論法ではないがリスクの予測やリスクの保障ということになればすぐに思い出されるのは保険であろう。これまた、西欧的価値観のもとに発達したシステムで、日本人にはまだまだ若干の違和感がある。古いといわれるだろうが暖簾の生きていた社会とは相容れないものがあるような気がする。特にこれからの社会に求められるいろいろなプロフェッショナルといわれる人達の活躍には昔の職人魂のほうが似つかわしいと思うが、これも世の流れか。西欧には早くからPII(プロフェッショナル・インデムニティ・インシュランス)という専門技術者のための保険があり、個人のコンサルタント技術者を守る為の保険があると聞くが、日本で今話題になっているCMやPMが行われるようになれば、この種の保険は不可欠になろう。積算や設計業務にもその種の保険のニーズはあるであろうし、事の是非はともかく保険の時代がやってくる事は間違いない。この流れの原因を探ってみると、私見ではあるがゼネコンの力が少しずつ弱くなってきているからではないだろうか。即ちこれまで建設に伴うリスクはそのほとんどをゼネコンがカバーしてきた。それがバブル崩壊後のゼネコン不況の関係でゼネコンが体力をなくし、その結果あらゆるところでリスクを極力少なくなるように努力してきた。それが下請けへのしわ寄せであったり、CMの発生であったり、契約の進めかたであったりするのであるが、ある意味でこれはゼネコンの自殺行為になるのかもしれない。ゼネコンの機能を分析するとかなりCMに近い。一つの大きな違いはゼネコンはリスクを取る。CMはリスクを通常施主にゆだねる。実際の仕事はゼネコンの下で職人がやる。CMの場合でも作るのは職人たちである。ゼネコンの役割はコー-ヂィネーションとリスクテイキングである。ゼネコンがリスクを取らなくなったら残るのはコーデイネー-ションのみになる.一方CMアットリスクを保険を使ってやるCMが現れたらゼネコンの出る幕はないかもしれない。いずれにしても世の中は透明性を求めているという点は確かでリスクの存在はいやでもはっきりさせなくてはならない。リスクを取り続けるか、保険社会にしていくか、この問題の解決はゼネコンに投げかけられていると考えたほうが良い。
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