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社会のセーフティーネットを張る

  ある日曜日上野公園に永く愛され、しかも使われ続けている建物の写真を撮りに行った。東京藝術大学の奏楽堂の写真を撮りにいったのであるが、そのすぐ近くに青いビニールシートのテントが点在していた。永く愛されているものの対極にあるテントが永く愛されているもののすぐ隣にあるとは何と皮肉であろう。それらのテントはいうまでもなくホームレスの住居である。勿論テントを住居とは呼ばない。しかしその目的は住居と同じである事は間違いない。では住居と呼ぶにはどんな要件を必要とするのであろうか。色々議論の分かれるところであろうが、日本国憲法は基本的人権として全ての人に文化的な生活をする権利があることを認め、それを保証している。ホームレスの存在は憲法違反であろう。では何故こんな状況が発生しているのであろうか。ホームレスの問題は経済、社会、政治、ありとあらゆる問題の総決算のような問題である。しかし、物理的に見れば住宅問題であるとも言える。どんな経済状況になっても、文化的な生活を保障されているのであれば、少なくとも住居といえる住むところはあてがわれなければならない。
今、公共工事が悪者呼ばわりされている。無駄なものばかりやっているといわれる。その中に出てくる議論に、日本に住宅は全世帯数の1.何倍あるので飽和状態である。公的住宅の必要性はなくなったという議論が盛んになされている。本当にそうであろうか。ホームレスの問題をいっているのではない。住宅の質の問題でもない。住宅の質は欲を言えばきりがない。しかし住宅が基本的人権であれば、住居に不安があれば、量的な問題がどうであれ質的な問題がどうであれ基本的に問題があるといわざるを得ない。高齢社会を迎えて、住宅を取得済みの人は住宅ローンの重さにあえぎ、住宅を取得してない人は年金生活で高い賃貸料金を払い続けられるかどうか、社宅や公務員宿舎にいる人は、そこを出た後どうするか、それぞれであっても不安にさいなまれている人は多い。そんな人も公的住宅が充実していれば安心である。これまで政府は国民の為と称して持ち家政策を進めてきた。国民に何はともあれ住宅をという発想で賃貸住宅を提供してきた住宅公団まで、最後は分譲に乗り出した。それもかなり高額なものが多かった。住宅金融公庫も庶民に持ち家をという理念で低利融資を一生懸命やってきた。それが今は悪者扱いである。キーワードは民業圧迫である。このキーワードは一見抗い難いように見えるが、問題はそこにはない。即ち両者の間違いというよりは政府の間違いであり、もっと基本的なところにある。それは、住宅を国民に与えるといいながら、持ち家を基本とした事である。自由主義国家である限り住居の選択は自由であるが、あたかも持ち家に住む事が良い事で、まともな人は家を持つことが一人前の証のように思わせてきた。マイホームを夢としてマイホームを持つことが人生の目的のように思わせ、それに向かって猛烈に働くように仕向けてきた。しかしヨーロッパでは持ち家比率は日本より低く、良質な公共住宅を楽しんでいる。もし日本でも満足できる公共住宅があればそんなに無理してマイホームの取得に狂奔する事はなく、狂乱地価に翻弄される事もなく、ローン地獄にはまり込む人もいないであろう。現在1400兆円もの金融資産を国民が持ちながら消費がどんどん落ち込んでいくデフレ経済の真の原因は将来への不安である。それも住宅に対する不安が大きい。今、老後を迎えようとしている団塊の世代から老後の住宅の不安をなくしてやれば、即ち年金の範囲内で手軽に借りられる公共住宅があればどんなに安心するか。多少財布の口が緩む事請け合いである。消費不況脱却の決め手となるかもしれない。
こういうとまたあのキーワードがしゃしゃり出るかもしれない。民業圧迫。しかし民間に任せておくと、市場経済の原則で今売れる値段の住宅というのがあり、それを見ると我々の主張している長寿命住宅とは程遠いものしかない。建設廃材の予備軍を作っているだけである。公共住宅なら今求められている100年住宅を作る事は可能である。それは100年国債を発行すればよいからである。民間では100年ローンは無理であろう。国債の発行残高が問題のように言われているが、真の問題は償還できるかどうかということと、作られたものがそれだけ長期に価値があるかということである。そういう意味では100年国債で作る公共住宅は
SI住宅として耐用年数は200年とするべきであろう。そして政府は基本的に持ち家政策を転換し国民の基本的人権としての公共住宅の提供を心がけるべきである。公共事業が無駄といって減らす前に必要なものを考えてみるのも大切であろう。その場合既存の住宅産業は夢の部分を担当する産業になればよいのである。国民もマイホームの夢は止めて本当に文化的な生活を公共住宅で実現するように価値観を転換したほうが得であるということに気付いてもらいたい。人間の価値を持ち家かどうかで測る愚は20世紀に置いていきたい。