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入札制度を考える為の基本問題

本紙の7月11日のトップ記事に、東京都が設計委託に総合評価競争入札方式を採用する事になったと報じられていた。内容はその記事を読んでいただくほうが早いが簡単に言うと経歴審査と設計の姿勢の審査と設計価格の競争を織り交ぜたものである。公共建設物の設計にしても工事にしても基本は同じで公共工事の発注者の責任は、国民、市民に、必要なものを必要な時に合理的な価格で調達する事にある。その点からすればこれまでの価格中心の競争は公共建設物の価格という一面だけに焦点を絞った偏ったものといえる。特に設計の場合は設計の内容のほうが設計費用の問題よりも建設物の役割に占める比重はずっと高く、設計価格の違いなどは決定要因のかなり下位の順位になると思う。しかし現在のコンペ方式や、プロポーザル方式では内容の把握は出来ても応募する側の負担があまりにも大きい。参加者に経費の一部を支給するなど解決の方法もあるが、コンペやプロポーザル方式は特殊な場合に適用すべきであろう。しかし大半の建設物にはもう少し簡便な方法が望ましくこの綜合評価競争入札方式は期待できる方式だと思われる。 ここまでは、この方式が考えられてきた事を思えば、多くの方の認識も同じであろう。工事発注についても綜合評価制度が望ましいと、この欄に書いたこともあるが今もその考えに変わりはない。しかし、良いとわかっていても普及の度合いが遅いのは事実であり何か他の要素があるのかも知れない。他の要素とは、例えば入札に手間隙が掛かりすぎるとか値段以外の要素の評価が難しいとか色々あると思われる。しかし、手間や評価の難しさは本来の目的を考えた場合国民の付託に応えて行政サービスを担当している役柄からすれば当然やらなければならない仕事であり役割であると考えなければならない。只、入札行為に対する効率の問題はあるが、入札手続の効率化よりも、入札の公正さや公明性のほうが優先されるべきであろう。勿論、公平性や透明性も重要である。こういった諸条件をクリヤーする為の努力をする事が、基本的に国民の付託に応えることでそのために多少のコストが掛かっても止むを得ないと考える。現在言われている政官業の癒着によるコストを考えれば、また、入札制度が合理性を欠くことによって生じるコストを考えれば全ての入り口である入札制度に多少のコストは認めても良いのではないかと思う。現在進んでいる電子入札の場合基本的には価格中心の入札になるし、電子入札による効率化のコスト削減効果などよりも、入札の合目的化のほうがはるかに重要である。電子入札はあくまでデバイスの選択の問題で本質的な問題ではない。
そして、これまでの議論の裏付けに対する議論もしておかなければならない。それは、綜合評価制度は工事の場合も、設計の場合も基本的には人が評価する制度であり主観が左右する制度であることは否めない。如何に点数制度などで客観性を確保しようとしてもである。綜合評価制度に懸念を持つ人があれば恐らくこの点であろう。しかし、この点はどんな制度を作っても人の判断を完全に排除するのは難しいと考えておいたほうが良い。むしろ発注するという行為は人間の行為であり、人間性の排除は基本的に出来ないという前提で考えるべきであろう。その上で所期の目的に出来るだけ近い形態にする事を考えるべきである。公共工事の発注者は基本的に国民の税金を使うのだからそれに対する説明責任があり発注者としての責任も大変重いものがある。天下りによる公共工事の一部私物化が言われているが事実とすればとんでもない事である。天下りは肩タタキと関連があり肩タタキの解決をしなければ無くならない問題であるが、そのことも含めて、入札問題や不良不適格業者の排除問題等は発注者の責任に帰せられるべきものである。入札問題の場合受注者側は基本的に激しい競争場裏にありいろいろな業者がひしめき合っていると考えざるを得ない。ここは身分保障をされた発注者側に責任を自覚してもらうしかない。
各発注者に現在入札監視委員会なるものがあるが、どれだけ機能しているのであろうか。確り機能しているならばこんなに入札関連の不祥事が発生する事は無いのではないか。入札問題は不良不適格業者の問題を含めて発注者側の責任により重きをおいて、特に入札監視委員会の機能強化と、発注者側の倫理を強く求め、公務員倫理法の適用をいっそう厳しくする事で解決するしかないのではなかろうか。そして発注者の責任で自信を持って、主体的にベストな選択をしてもらうのである。これは発注者側に厳しすぎるように感じられるかもしれないが、受注者側もルール違反したら即市場から退場させられるくらいの罰則強化を受け入れなければならない。営業停止期間も現在程度では不正への抑止効果はない。いまや一刻も猶予はない、出来る事からやりださねばならないのではないであろうか。